昭和44年03月21日 朝の御理解
御理解 第10節
『神が社へ入っては、この世が闇になる。』
「神が社へ入っては、この世が闇になる」。これは金光教の神観ですね。そういう神様社の中に納まってござると言う神様ではない、もし神が社に納まってしもうたらこの世が闇になると、いわゆるこの世を丸生かしに生かしてござる、そういう働きの元をとられる神様であると。この世が闇になると仰る、ならこの世は光明の世の中である。神様が社に入っておられないのであったら、この世は光明の世界だと。
だからいうことが言えますね。その光明の世界にお互い住まわせて頂いておりながら、やはり心が闇だというなら、この世は闇だと言う様に感じている人も沢山あろうとこう思う。この世が闇であるそれをまぁ照らすもの、例えば親の光とか親の光は七光りてな事を申しますがね。金の光いわゆるお金にもの言わせるという訳ですね。ところが親の光と言うてもいつまでも親が居る訳でもないし、金は使えば無くなるし無くなったと同時に闇になる、親が亡くなったと同時にもう親の光というものは当てにはならない。
この御理解この一節はいわゆる私共が拝んでおる、例えば金光様のご信心とは、金光様の信者さんはどういう神様を拝んでいるのかと、もし問われたらそう言う風に答えなければならない事をここに書いてある。わかりますね。信心があってもなかってもこの神様のおかげを受けなければ立ち行かん。だからそれが小さいお社のなかに納まってしまうような神様ではない。教会にこうやって神様が御祭りしてある、教会に行かなければ神様が御座らんというのではない。
但し金光大神のそのうお取次を受けるというのは、やはり教会でなからかければ出来ない。また私共が心を拝む焦点と言った様なものが、そこにだから最近のお道の信心で、教団でいま非常に頭を悩ましている問題が、神様の奉斎様式なんですね。神様をどう奉斎するかと。教祖の神様は例えばそのように神が社に入ったらこの世が闇になると、仰るような神様ですからお社の中に閉じ込めてしまうような、いわば形式と言う様なものは、金光教的ではないのではないかと、言う様な問題確かにそうであります。
ですからある教会のお社なんかは、あの開扉を致しますよね、開扉を致しますともう向こうに大空が見えるような、仕組みにしてあると言ったよう所があると聞きました。ですから開扉をしなければ、神様にじかに会われないと言った様なそのうものでもない。この世この宇宙に遍満してござる、しかもそれはそのままが光明である、この世はいわばその光明世界である。それが私共が小さい考えそのいわゆる神の光に頼ろうとしたり、親の光に頼ろうとするところに、心が真暗にならなきゃならん訳ですね。
神様が在るやらないやら分からないというのは、その神様の光明と謂うか光というのはあまりにも偉大であり、あまりにも大きいから分からないということである。人間というのは自分に都合が良い事になって来ると心明るくなって来る。都合が悪くなって来ると心が滅入ってしまう心が暗くなってしまう。大体その言う事があってよかろう筈がない。光明世界に居るのですからね。お互いが光明の世界というかね、そういう明るい世界に住まわせて頂いているということを、気ずかせてもらい。
それを一切に自分の心に、又はこの体でそれを受けとめると言うかそれを感ずる。なるほどこの世の中いわゆる神徳が満ち溢れておる、神徳の中にあるんだなということが分る。だからそこのところを我が身は神徳の中に生かされてある事の事実を教えて下さるのが、金光大神お取次の道だとこう思うのです。なるほど神様は社の中に入ってござるんでは無いんだなと言う事です。神様のお守りを受けておるんだというその実感というものが、いつも心の中にあると心が明るい。どんな場合でも心を暗くする事はあるまい。
私は昨日お客さんを受けましたので、秋永先生と高橋さんと一緒に行って頂いてから、久し振りで二日市の太宰府に、天満宮さまにお参りさして頂いた。まぁだ梅も少しは残っておりまして、昨日はご承知のようにあぁいう、お湿りの中でしたけれどもおかげを頂いてから、あちらに着かせて頂く頃からお天気になりましてね、あちらでゆっくり一巡さしてもらい、一辺通り回ってからそおれであそこで梅が枝餅を頂いて、そして自動車に乗り込ませて頂いたら、又お湿りが始まりました。
まぁいつもの事ながら有り難い事だなと思います。昨日はそういうお湿りの中にお参りが相当あっとりました。それでちょうどこういうあのう試験のシーズンですから、出来た合格したと言った様なのが、まぁお礼参拝やらが多かった加減じゃないじゃろかとこう思います。試験に受かったといやぁ、誰でもやっぱり嬉しい心があがる。けれども不合格であったと心が暗くなる。お願いに参っておったんですから、そりゃ出来るようにというてお願いしてあったのでありますから、出来たからお礼参りをする。
出来なかったらもうお参りはしない。それが普通で言う神様でありまあ天満宮様は、まぁそういうものだと思うんですね。願いが成就したからお礼参りをした。願いが叶わなかったからもう神様にどんな働きを頂いとっても、それが分からないからお参りをしない。そこにそのう明暗を感じますね、明るい暗いを感じます。ところが金光様のご信心を頂いておりますとどういう事になるでしょうかね。成程誰でも試験でも受けりゃ出来たがよいが心情であり人情であり、親と子でありゃ親のそれが情なのである。
けれどもお願いをしてお取次を頂いておる、お願いをしておるからの事であるならば、そのう出来ても出来なくても、お礼参拝をさしてもらうというのが金光様のご信心である。そういう例えば教えというか、そういう道を習ろうておるのである。いつも私は例に取るんですけれども、ここの若先生が大学受験の時もそうであった。3回も東京へ参りました。3回とも不合格であった。これは神様のご都合ぞと言うてお礼を申し上げておった。向学心に燃えている若い時ですから。
何回も何回もすべっても又受ける、すべっても又受けると言う訳でございますけど、それが出来なかった。それは頭が悪かったとか腑が悪かったとは言われない、神様のご都合ぞ。それでここで教会設立の問題、教師ということには教師がなしには出来ない。そこでご信者一同が、これは若先生に若先生と言うたら長男ですね、勝彦さんに学院にいってもらう、一年間学院に行ってもろうて教師の資格を取ってきてもらう以外には無い。しかしご本人はあぁして学校に行きたいと言うれおられるから。
とにかく皆んなでお願いをしようと、ちょうど勝彦は2階でそういう会議をやっている時に、勝彦はお結界の奉仕をしておった。それで総代さん方が出て参られましてから、勝彦に申しましたらそれじゃ私が学院に参りましょうという事に、それで総代さん方は安心して下さって学院に無事入学が出来、そして一年後に教師の資格を取ってきて、始めてここが教師が出来た。いわゆる布教者と。教会のいわば段取りがそのようにして出来てきた。又その時節でなからなければいけない問題がいくらもあった。
あの人に例えば大学に行ってもろうて、それでまぁ勉強しておったら、現在の合楽はまだ教会になる段取りというものは出来なかったに違いない。大きく狂って来たに違いない。確かに出来なかった事もおかげであった事が分かって来た。熊谷さん処のご長男浮羽高校でしたが、もうこの人は大学に受からんはずはないと受持ちの先生が太鼓判を押すようにいっておったのが3回すべった。ようやく3回目に受かった。ところがやはり二年後、三年後でなからなければならない事情が次から次と出て来た。
神様の御神意というのはここにあったんだなと、卒業してからの就職の事から何から考えてみて一年早ようても遅うてもいけないというその事実に直面して、初めて私共は分かった。こういうご都合があったんだと。ですからね本当に神様のご都合というか御神意というかね、そこんところを分からせて頂く稽古を、私共はしておる訳なんです、それをまぁ申しますと「肉眼を置いて神眼を開け」という風に教えられる。または成り行きを大事にさえしておけば、神様のご都合なんだから、その事はおかげである。
その事をおかげであると頂けれる信心。そういう私はその事がおかげであると、信じられる道を教祖様はおしえておられる。そこに初めてあの光明世界がある訳です。ひとつも心を暗くせんで済む、おかげとして頂けれる道がある。そういう道を会得し体得させて頂いておかなければ、やはりこの世が闇になる、神が社に入ってはこの世が闇になる。いうなら神様がこの世に社に入ってござらんのであるならば、ここはいつも光明である、光明の世界である。
その光明の世界というのは、あまりにも大きな光明であるために私共は分からない。それを分からせて下さったのが教祖様である。「神が社に入ってはこの世が闇になる」私共が神様を社の中に押し込めてしまうような信心をしたのであっては、天満宮さまじゃないけれど、大宰府さんにお参りしなければ分からない。天満宮さまというのは、やはり太宰府にしか御座らん。金光様の信心を頂いとってもそうである。唯お社の中にだけ御神前と申しますよね、自分とこの神様のいわばお社の中にだけ神様が治まってござる。
ここのお広前だけにのお社の中に、神様がござるという風に思うということは、神様をそこに押し込んでしまう様な事になる。ですからお広前を外れると、もう言うなら2重人格的な事になってしまう。お広前ではあんなに素晴らしい、いわば人が家に帰ったら二人みるように変貌してしまう。これではやはり自分で神様を社に、いわば押し込んでしまうようなこと。神様は社の中に納まる神様ではないけれども、私共が神様を社の中に入れてしまう。だからその人の前には闇しかない事になるのです。
いうなら神様のご都合として頂けんのです。様のご都合であるとして頂ける道をしっかり体得さして貰って、始めてこの世は光明の世界である。神様のいうならば光明の世界というのは、御神徳が満ち溢れた世界であると分からせて貰う。そういう分かり方が出来る所にです、事実の上にもそれが影の様におかげが現れて来るのがお道の信心、願いが思い以上に展開して来ると言う事です。例えば昨日大宰府さんにお参りをさして頂いて、もう私共が大宰府へ着いてこう一遍見物に回らせて頂く間だけはお天気なんですよね。
その後はずぅっとお湿りがあってましたでしょう。いわばそれは影ですけどそういう私は頂き方に神様のご都合として、頂けれる稽古が常日頃出来ておる処に私共は降っても仕方がない。いや降っても実はおかげだけどもそこにもう濡らせはせん不幸せにはせん、寒い思いはさせん暑い思いはさせんと言った様な、特別な働きがそこに始まるそれをおかげとこういう訳なんです、そういう私は幹が付いて来る。神が社に入ってはこの世が闇になる神様が入りなさる事はないけれども。私共が神様と社の中に入れてしまう。
そこには闇の世しかない。いかにもそれはそのよかよか家にはお金があるから、金で物言わせる権力とか、親の光でと言うて親の光とか金の光とか。しかしそういう光に照らされておるんだったら、もうそれは必ずもっとひどい闇におちなければならない。それが無くなったらもう一辺に逆転してしまう。親が無くなったら最後お金がなくなったら最後、この世の闇が一層濃いくなって来る訳。私共はいつも絶えず消える事がないお照らしを頂いておると言うか、そういう言うなら神愛の中にいつもあるのだ。
そこでいわゆる神愛を悟らして貰い、神愛を分からせて貰う処からいつもがおかげ。どのような事でも神様のご都合ぞと言うておられる、そういう頂き方が出来る処に限りのないいわゆる影、私どもが求めて止まないいわばおかげが願わんけれども着いて来る、頼まんけれでもいつもそういうおかげんの中に浸らして頂くから、いよいよ有り難いなあぁ、有り難いなぁという光明の生活が出来る。自分の思うごとなった時だけが心が明るいと言った様なものではない。
ここでは「神が社に入ったらこの世が闇になる」ということは、これは御道で言う「神様をいわゆるどう頂いておるか、いわはゆる神観金光教ではこう神を見ておる」とこう言うのである。ですからどこへ居ってもその神様がいつも頂かれておる信心を、どんな場合であっても神様の働きを充分に頂いておるということが、神様のご都合だという事になる。そこん処が信じれれる信心をさして頂く、そこにこの世は闇の世界ではなくて、明るい有り難い世界勿体無い世界、それを私は光明世界と申しました。
そこには今度はそういう頂き方が出来るということだけではなくて、そこには例えば濡れんですむおかげ、大宰府に行った時の様に、そういうおかげがそこには必ず影のようについておるんだということ、おかげはいわば着いて回るんだそういう心の状態には。それとは反対に闇には影が映る筈がない。光があるから影が必ずあるのです。それを私共はおかげという。お道の信心いわゆる神観から、今日はそういう風なこの世は闇になると仰るが、いつも出てござるのであるから。
いつも光明でなからなきゃ明るい世界でなからなきゃいかんのに、お互いの心からその光明世界を有り難くないものに、苦しいものに真暗な世界に私共がしてしまう。それを車にたよったり人に頼ったり金に頼ったり。そこにチヨットした光を感じるけれど、そういう光はマッチをすってパッと光ったようなものであって、燃え残ったら後はまた闇である。いつも絶やす事のない消える事がない光を、頂けれる信心を求めての信心でなからなけりゃいけんという事が言えます。
どうぞ。